下記の署名運動に参加・共有・拡散をお願いします:
https://secure.avaaz.org/community_petitions/jp/quan_tenoren_di_qiu_lun_li_ren_jian_ze_ren_woshou_rou_let_s_observe_global_ethic_human_responsibilities/?eQFbdbb&utm_source=sharetools&utm_medium=email&utm_campaign=petition-1670679-di_qiu_lun_li_ren_jian_ze_ren_woshou_rou_let_s_observe_global_ethic_human_responsibilities&utm_term=QFbdbb%2Bjp
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地球状況の悪化、特に戦争と核脅威により世界終末時計は終末まで90秒と最悪の状態になっています。
The doomsday clock is at its worst state of 90 seconds to the doomsday due to the worsening of the global situations, especially the war and nuke threat.
これは人間業、特に貪瞋痴三毒によっています。それを制止すること、特に不殺など五戒を守れば終末を防げます。
This is due to human karma, especially its triple poisons of desire, divisiveness, and delusion. If we still them, especially if we observe the five precepts of no killing, etc., we can prevent the doomsday
五戒の不殺、不盗、不偽、不淫は相依相対の法(真理・倫理)世界に共に友として生きる必須項目であり地球倫理宣言で要請されました。
No killing, stealing, lying, sexual misconduct of the five precepts are the essential items to live as friends together in the related/relative dharma (truth/ethic) world and required in the Declaration of a Global Ethic.
地球倫理宣言に基づいた「世界人間責任宣言」は「世界人間権利宣言」の対応物として発布五十周年に発布されるよう国連に要請されました。
The Universal Declaration of Human Responsibilities based on the Global Ethic was requested to be published by the U.N. to adopt as the counterpart of the Universal Declaration of Human Rights at its 50th anniversary.
権利の主張だけでは世界終末に至りますが、責任を共に守ればそれは避けられます。「必要の時の友は真の友」は今自他共にこれを守る事です。
Assertion of right only would lead to the doomsday, but if we observe responsibilities together, it can be avoided. “A friend in need is a friend indeed” is to observe them together now.
共に地球倫理を守り、世界人務宣言が発布され共に守る様に自覚覚他に努め、周知徹底の為に努力しましょう❣
Let us observe the Global Ethic, and strive for awakening and action for the Universal Declaration to be issued and observed together, and these known and realized!
註1.五戒の最初の四項目は地球倫理宣言では以下の取り消し不能の四教令として皆が守るよう要請されています。第五項目が2018年に加えられました:
Note 1. The four items of the five precepts are requested as the four inalienable directives to be observed by all in the Global Ethic. The fifth was later added.
- 非暴力と生命の尊重の文化への献身
- 連帯と公正な経済秩序の文化への献身
- 寛容と真実の生活の文化への献身
- 男女の平等な権利とパートナーシップ(共同精神)の文化への献身
- 地球の維持可能性と世話の文化への献身
- Commitment to the culture of non-violence and the respect for life
- Commitment to the culture of solidarity and just economic order
- Commitment to the culture of tolerance and truthful life
- Commitment to the culture of equality and partnership between men and women
- Commitment to the culture of the global sustainability and cares
2.地球倫理宣言は核戦争の危機回避の運動が世界中に広まった1993年シカゴで第二回の世界宗教会議で七千人以上が集まり採択発布されました。
- The Declaration of a Global Ethic was employed and issued by the Parliament of the World’s Religions gathered by more than seven thousand people in Chicago in 1993, when movements to avoid the danger of the nuclear war throughout the world.
3.世界人間責任宣言は地球倫理宣言に基づいて元国家元首や宗教代表者たちのインターアクション・カウンシルにより国連に提出され、発布するよう要請されました。
- The Universal Declaration of Human Responsibilities, based on the Declaration of a Global Ethic, was proposed and presented to the U.N. by the Interaction Council of former state heads, religious representatives.
4.「権利のガンジス川は責任のヒマラヤ山に淵源する」とガンジーが言ったように、因縁生起・相依相対の世界の秩序安寧・平和繁栄は五戒のような責任を先ず守ることが先決で、権利はその範囲内で行使されなければなりません。
- As Gandhi said, “The Ganges of rights issues from the Himalaya of responsibilities,” order & welfare and peace & prosperity of the related and relative world in interdependent co-origination require responsibilities to be observed first, and rights must be allowed in their limits.
5.地球倫理宣言では以下の根本的原理を掲げています:
- The Global Ethic lists the following fundamental principles:
1.地球倫理なくければ新世界秩序はない。
2.根本的要請:すべての人間は人間として扱われなければならない。
3.四つの取り消し不能の教令
1. There is no new world order without the global ethic.
- The fundamental requirement: All humans must be treated as humans.
- The four unalienable directives
6.宗教 (religion) は「聖 (holy: wholly wholesome: 全体健全) への帰一(ラテン語religareにreligionは由来)ですがその理想像は友(Mitra, Mithra, Mazda, Maitreya, Mile, 弥勒, Messiahなど)です。これは未来の救世主とされていますが、各自の可能性であり、未来の他者を待つだけでは何時までも理想社会は実現不可能でしょう(参照:依自不依他、依法不依他)。
- Religion (derived from Latin religare, reunion) is reunion with the holy (wholly wholesome) and its ideal figure is friend (Mitra, Mithra, Mazda, Maitreya, Mile, Miroku, Messiah, et al). These are regarded as future saviors, are actually everyone’s possibilities, as if one is waiting for someone else coming in the future, the ideal societies can’t be realized (cf. refuge in the self, no other & refuge in the dharma, no other).
7. 戦争は殺生、偸盗、虚偽、凌辱など一切の悪を含みますが、不殺生など地球倫理を守れば戦争は起こり得ません。国内では禁止されるこれらの罪悪を他国人に対して為す戦争は国庫主義という妄信に基づいています。我や我国だけを考え、他や他国を考えない自己中心は地球・生態などを無視した短見・偏見であり、情報化・民主化・地球化の時代には許されません。(参照:E.カッシラー「国家の神話」)
- War includes all evils like killing, stealing, lying, raping, etc., but if the Global Ethic is observed, war can’t happen. Wars committing these crimes prohibited in any country, but done to other country people is based on the blind belief of nationalism. Selfishness thinking only the self and self’s country, not thinking of others and others’ countries is the short-sight and bias ignoring the globe, ecosystem, etc., can’t be allowed in the age of information revolution, democratization, and globalization. (cf. E. Cassirer, Thy Myth of the State)
8.文書
1.地球倫理宣言PDF:地球倫理宣言 (本文下記参照)
1. Declaration of Global Ethic PDF: 地球倫理宣言global_ethic_pdf_-_2020_update
2.世界人間責任宣言PDF:世界人間責任宣言
2. Universal Declaration of Human Responsibilities PDF:
universal declaration of human responsibilities
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地球倫理宣言
1.地球倫理宣言
地球は苦悶している。
その苦悶があまりにも拡大し緊急を要するので、その苦悶の深さを明らかにする
平和が我々から逃げ失せ・・・この惑星は破壊されつつあり・・・隣人たちは恐怖の中に生活し・・・男女は疎外し合い・・・子供達は死んで行く!
これは空恐ろしいことだ!
我々は地球の環境体系の濫用を断罪する。
我々は生命の可能性を窒息させる貧困、人体を衰弱させる飢餓、あまりにも多くの家庭を崩壊の恐怖にかりたてる経済的不均衡を断罪する。
われわれは諸国の社会的混乱、市民を限界状況に追い込む正義の無視、我々の共同体をとらえる無政府状態、暴力による気違いじみた子供たちの死を断罪する。特に宗教に名をかりた攻撃と憎悪を我々は断罪する。
だが、この苦しみを受ける必要はないのだ!
それを受ける必要はあないのだ。何故なら倫理の基礎が既に存在するのだから。この倫理はより良い個人的かつ地球的秩序の可能性を提供し、個人を絶望から、社会を混沌から救い出すものである。
我々は世界の宗教の教えと実践を胸に抱いてきた女性であり男性である。
我々は諸宗教の教えの中に共通の一組の核価値が見いだされ、これらが地球価値の基準を成すことを確認する。
我々はこの真理は既に知られていたが、未だに心と行動をもって生きてこなかったことを確認する。
我々は生命の全領域のための、家族や共同体のための、人種、国家、宗教のための、取り消し不能で無条件の規範があることを確認する。世界の諸宗教の教えに見いだされ、維持可能な世界秩序の為の条件である、古来の人間行動の指導原理が既に存在するのである。
我々は宣言する:
我々は相互依存している。我々の各々は全体の福祉に依存しているのであるから、我々は生物共同体を、人々、動物、植物を、そして地球、空気、水、土の保全を尊重する。
我々が為すことすべてに個人的責任をとる。我々の決心、行動、そして行動しないことにもすべてその結果があるのだ。
我々は他人が我々を扱ってほしいと望むように、他人を扱わなければならない。我々は誰でも例外なく人間として扱われるように、生命と尊厳、個性と多様性を尊重することに献身する。我々は忍耐と包容(の態度)を持たなければならない。我々は過去に学び、決して憎悪の記憶の奴隷になることをせず、許すことができなければならない。お互いに心を開いて、我々は世界共同体の大義のために狭小な相違を没却し、一体性と相依性の文化を実践しなければならない。
我々は人類を自分の家族とみなす。我々は親切で寛大であるように努力しなければならない。我々は自分のためだけに生きるのではなく、子供たち、老人たち、貧しい者たち、苦しむ者たち、障害のある者たち、避難者たち、孤独者たちを決して忘れず、他人にも奉仕すべきである。如何なる方法であろうと二級市民と見なされたり、扱われたりしてはならないし、如何なる方法であろうと搾取されてはならない。男性と女性の間には同等なパートナーシップ(共同精神)がなければならない。我々は如何なる種類の性的不道徳も犯してはならない。我々はあらゆる種類の支配と乱用を捨て去るべきである。
我々は誰もが人間として十全な可能性に達することができる平等な機会を得られる公正な社会的、経済的秩序の為に努力しなければならない。我々は偏見と憎悪を離れて一切を公正に扱い、慈悲をもって真実に話し行動しなければならない。我々は盗みをしてはならない。我々は公正で平和な世界を作るために権力、特権、金銭、消費に対する貪欲の支配を超越して動かなければならない。
地球は、個々人の意識が先ず変わらなければ、良くなるように変わることはできない。我々は心を鍛え、迷走により、祈りにより、積極的思考により自ら更に意識的になることを誓約する。犠牲を払う覚悟と用意がなければ我々の現状を根本的に変えることは全くありえない。それ故、我々はこの地球的倫理に、相互理解に、そして社会的に有益で、平和をはぐくみ、自然に親しい生活法に献身する。
我々は一切の人々を招請する、
宗教的であるなしに拘わらず、
同じようにすることに。
2.地球倫理の諸原則
我々の世界は根本的危機を経験しつつある:即ち地球的経済、地球的生態系、地球的政治の危機である。壮大なヴィジョン(視野)の欠如、未解決な諸問題のもつれ、政治的麻痺状態、洞察力あるいは先見力のない凡庸な政治指導力、そして一般的に言って、公共の福祉に対する無感覚が至る所で見られる。すなわち新しい挑戦に対して旧式な回答があまりにも多いということである。
我々の惑星上の何億という人間が、ますます失業、貧困、飢餓、そして自らの家族の崩壊に苦しんでいる。国家間の永続的平和への希望は我々の手からすり抜けていく。異性間、異世代間には緊張がある。子供達は死に、殺し、殺されている。ますます多くの国々が政治と商業の腐敗により揺さぶられている。社会的・人種的・民族的紛争、麻薬悪用、組織的暴力、さらには無政府状態の為、自分たちの街で共に平和に暮らすことがますます困難になってきている。隣人同士がお互いを恐れ合って生活しなければならないことさえ度々である。我々の惑星は無慈悲に略奪され続けている。生態系の崩壊が我々を脅威にさらしているのである。
繰り返し繰り返し我々は、宗教の指導者たちや所属員たちが攻撃、狂乱、憎悪、そしてよそ者嫌いを先導し、あまつさえ、暴力的ル結の紛争を鼓舞し、正当化するのを見ている。宗教は度々戦争も含め、純粋に政治権力の目的の為に濫用されている。我々は吐き気が込み上げてくるのを禁じ得ない。
我々はこれらの胴枯れ病を非難し、これらを不必要なものであると宣言する。地球的苦悩に対処できる倫理はすでに世界の宗教の教えの中にあるのである。もちろん、この倫理は世界の膨大な問題の全ての直接的解決を提供するものではないが、個人的及び地球規模のより良い秩序、すなわち女性にも男性主失望から、そして社会を混沌から導き出すヴィジョン(視野)、の道徳的基盤を供給するものである。
我々は世界の宗教の教えと実践に献身してきた者たちである。我々は次の事を確認する。すなわち、諸宗教のうちに地球倫理の基礎となるべき意見の一致(コンセンサス)、お互いを結合する価値、取り消し不能の基準、根本的道徳態度に関する最小限の根本的意見の一致があるのである。
原狸 I:地球倫理無ければ新地球秩序は無い!
我々、地球の諸宗教及び諸地域の女性及び男性、は、宗教的であろうと無かろうと、一切の人々に呼びかける。我々は共通のものとして抱く次の信念を表明したい。すなわち、
- 我々の全てがより良い地球的秩序に責任を持つこと。
- 人権、自由、公正、平和、地球の保存の為の我々の積極的取組みが絶対必要であること。
- 我々の宗教・文化の伝統の相違が、非人間的な一切の事に反対する共通の積極的取組や、より偉大な人間性の為の仕事を、妨げてはならないこと。
- 地球倫理に表現された諸原則は、宗教に基づこうと基づくまいと、倫理的信念のある人々にとっては誰にでも是認されるものであること。
- 宗教的・精神的人間として我々は我々の生命を究極的実在に基礎を置き、信頼・祈り・瞑想において、言葉あるいは沈黙により、精神的力・希望をそこから引き出す。我々は一切人類の福祉に対する特別な責任と惑星地球に対する配慮を持つ。我々は自らを他の女性や男性より良いものとみなすことは無いが、我々は我々の宗教の古来よりの智慧が未来への道を支持することが出来ると信念をもつ。
二つの世界戦争と冷戦の終わり、ファッシズムとナチズムの瓦解、共産主義と植民地主義の動揺の後、人類はその歴史の新しい局面に入っている。
今日われわれはより良い地球秩序を導入するに十分な経済的・文化的・精神的諸資源を所有している。しかし新旧の倫理的・国家的・社会的・経済的・宗教的緊張がより良い世界を平和的に建設することに対する脅威となっている。我々はかつてない偉大な技術的進歩を経験して来たが、世界に広がる貧困、飢餓、児童死亡、失業、悲惨、自然の破壊が減らないばかりか増えている。多くの人々は経済的破綻、社会的混乱 政治的辺縁化(無視)、生態的大惨事と国家的破滅に迫られている。
そのような劇的地球の状況にあって人類は人種的、倫理的集団の人々が共に平和に生き、地球への配慮の宗教的な分かち合う責任をもつヴィジョン(視野)を必要としている。ヴィジョンは希望、目標、理想、標準に依存する。だが、世界中でこれらが我々の手からすり抜けている。しかしながら、我々は、それらが屡々濫用や失敗するにも拘わらず、そのような希望、理想、標準を守り、基礎付け、生きることが可能であると実例をもって証明するのは信仰の共同体であることを確信する。これは現代国家において特に真実である。良心と宗教の自由の保守は必要であるが、一切の人々に、その社会的出自、性別、皮膚の色、言語、あるいは宗教に拘わらず有効である結束する価値、信念と基準に代わることは出来ない。
我々は地中上の人間家族の根本的一体性を信じる。我々は国連の1948年の世界人権宣言を想起する。権利のレベルで公式に宣言した物を倫理の視野から我々はここに確認し深化したい。すなわち、人間個人の本質的尊厳、一切人間の原則的な自由と平等、そして一切の人間相互の必要な連帯と相依関係の十全な実現である。
人間としての経験と我々の惑星の責任ある歴史の基盤からわれわれは以下の事を学んできた:
- より良い地球的秩序は法律、処方箋、そして条約だけでは創り出すことも強化されもしない。
- 平和、公正、そして地球の保護の実現はは公正に行動する男性と女性の洞察と決意に依存する。
- 権利と自由を愛好する行動は責任と義務の良心を前提とするのであり、それ故女性と男性の意識と内心の両方に呼びかけなければならない。
- 道徳のない権利は長続きせず地球倫理なしにはより良い地球秩序はないだろう。
我々は、地球倫理によって地球的イデオロギーや一切の現存諸宗教を超えた単一の統合宗教を意味するのではなく、勿論一つの宗教の他一切の宗教の支配を意味するものではない。地球倫理によって、我々は結束(拘束)する諸価値、取り消し不能の諸標準、そして人間個人としての諸態度についての根本的意見の一致を意味するのである。そのような倫理の根本的意見の一致なしには、遅かれ早かれ、混沌あるいは独裁により威嚇されて個々人は絶望することになる。
原理 II:我々は根本的要請を表明する:すべての人間は人間として扱われなければならない。
我々は皆、限界と欠点を持った過ちを犯しうる、不完全な男性であり女性である。我々は悪の現実があることを知っている。正にこの理由から我々は止むに止まれず、地球の福祉の為に、共同体や組織体と同様に個人にとって、そして宗教自体と同様に国家にとって、地球倫理の根本的要素が何であるべきかを表現するのである。我々は屡々数千年の古さを持つ我々の宗教的・倫理的伝統が、宗教的であるなしにかかわらず、全ての善意の女性と男性に信じるに足り、実行可能な倫理を提供することを信じる。
同時に我々は自らの様々な宗教的・倫理的伝統が屡々男性や女性に対して何が助になるか何が助にならないか、何が正しく何が誤っているか、何が良く何が悪いか、にたいして非常に違った基礎を提供することを知っている。我々は個々の宗教観の重大な相違を塗りつぶしたり、無視しようと望むものではない。しかしながら、このことが、個々人自らの宗教的・倫理的根拠に基づきながら、しかも既に共有し、共に是認する事がらを、我々が公けに宣言することを妨げるべきではない。
我々は諸宗教が地球の環境、経済、政治、社会の諸問題を解決できないことは知っている。しかしながら経済計画や、政治的プログラムや、法的規制のみでは明らかに達成できないものを、それは提供できるのである。すなわち、それは人々の内的思考・精神全体・人々の「心」の変革と、誤った道から生命への新志向という転換である。人類は社会的・生態的改革を緊急に必要としているが、同様に緊急に精神的刷新を必要としている。宗教的・精神的人格として我々はこの課題に献身(コミット)する。宗教の精神力は、根源的な信頼感、意義の根拠、究極的な基準と精神的な安息所を提供することができる。もちろん、宗教自身に由来する相克を取り除き、相互の傲慢、不信、偏見、更には敵対的心象をはぎとり、信仰を異にする人々の伝統、聖地、祝祭、儀式に対する敬意を表明する時にのみ、宗教は信用できすものとなる。
以前と同様今も、世界中至る所で女性も男性も非人間的な取り扱いを受けている。彼等は自分たちの機会と自由を奪われている:自分たちの人権が足の下に踏みにじられている。つまり、自分たちの尊厳が無視されているのだ。だが力は正義とはならないのだ!あらゆる非人間的事態に直面して、我々の宗教的・倫理的信念は、あらゆる人間は人間として扱われるべきであることを要求する!
これはあらゆる人間が年齢、性別、人種、皮膚の色、身的及び心的能力、言語、宗教・政治的見解、国家的または社会的出自の違いにかかわらず、不可分、不可侵の尊厳をもつことを意味する。それ故、誰でも、国家と共に個人もこの尊厳を尊重し保護する義務を負う。人間は常に権利の主体でなければならず、目的でなければならず、決して単なる手段であってはならないし、また、経済、政治、メディアや研究機関、あるいは産業法人の商業化や産業化の対象であってはならない。如何なるものも「善悪を超えて」存立するものはない-如何なる人間も、如何なる社会的階級も、如何なる影響力ある利益団体も、如何なるカルテルも、如何なる警察組織も、如何なる軍隊も、如何なる国家といえども。これとは反対に、如何なる人間も理性と良心をもって、真正に人間的なやり方で振る舞い、善を行い、悪を避ける義務を負う!
これが何を意味するかを明らかにするのがこの地球倫理の意図である。そこに取り消し不能で無条件の倫理規範を我々は喚起しようと欲する。これらは枷(かせ)や鎖であってはならず、人々が自身の生命の方向、志向や意義を再び見出し、実現する為の助けであり、支えとすべきものである。
人類の宗教的・倫理的伝統の多くの者に何千年にわたって見いだされ、生き続けてきた原則がある。それは「自らにしてほしくない事は他人にもするな!」である。あるいは積極的な言葉では「自らにしてほし事は他人にもせよ!」である。これはあらゆる生活の場において、家庭や共同体にとっても人種、国家、宗教にとっても取り消し不能で、無条件の規範でなければならない。
自己中心主義は如何なる形であれ拒絶されるべきである:一切の利己主義は、個人的あるいは集団的であれ、階級的考え、人種主義、国家主義、性差別という形であれ(拒絶されるべきである)。我々はこれらのものを非難する。なぜならこれらは人間が正当に人間としてあることを妨げるからである。自己決定と自己実現は人間の自己責任及び地球責任と分離されない限り、即ち多の人間及び惑星地球に対する責任から離れない限り、正当なものである。
この原理は我々人間が確固として保持すべき非情に具体的な基準であることを意味している。これらのことから、世界の諸宗教の殆どに見いだされる人間行動の五つの、広汎で、古くからの指導原理が出てくる。
原理 III:我々は一組の取り消し不能の教令に献身する。
あらゆる地域及び宗教の無数の男女が自己中心主義ではなく、人間同志と周囲世界への献身を決心して生活する努力をしている。しかるに世界中至る所、我々は個人間だけでなく、社会的・民族的団体間に、階級・人種・国家・宗教間に、終わることなき憎悪・羨望・嫉妬と暴力を見出す。暴力の使用、麻薬取引や組織的犯罪は屡々新技術の可能性を備えて地球的規模に達している。多くの所ではいまだに「上から」の恐怖に支配され、独裁は自国民を抑圧し、制度的暴力が広く行きわたっている。個人の自由を守る法律のある国でも、ある所では、囚人は拷問を受け、男性と女性は不具にされ、人質は殺されている。
- 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は「殺すな!」との教令を見出す。積極的言葉では「生命を尊重せよ!」という(教令である)。我々はこの古来の教令のもたらす結果を新しく考え直してみよう。人々は誰も他人の権利を侵害しない限り、生命、安全及び自由な人格の発展に対する権利をもつ。誰も他の人間を肉体的・心理的に拷問し、傷つけ、ましてや殺す権利は持っていない。如何なる国民も、国家も、宗教も行動が違い、異なる信条を持つ「外来の」少数者を憎み、差別し、「浄化し」、追放し、ましてや消し去る権利は持っていない。
- もちろん、人間のいるところ衝突はあるだろう。そのような衝突は、しかしながら、正義の枠組み内で、暴力を使わずに解決されるべきである。これは個人と同様、国家にとってもそうである。政治権力を有する者は正義の秩序の枠組み内で仕事をするべきであり、できうる限り最も非暴力的・平和的解決に至るように献身すべきである。彼らはこのために、それ自体、暴力の犯罪者からの保護・防御を要する国際的平和秩序の枠組み内で仕事をしなければならない。軍備は誤った道である。すなわち軍備撤廃は時代の至上命令である。地球の平和なくして人類が生き残ることはない!
- 若い人たちは家庭デモ学校でも、他人との意見の相違を解決する手段として、暴力は適当ではないということを学ぶべきである。このようにしてのみ非暴力の文化を創造することが可能となるのである。
- 一人の人間としての人格は限りなく貴重であって、無条件に保護されなければならない。だが、我々と共にこの惑星に生息する動物・植物の生命も同様に保護・保存・保全する価値がある。生命の自然の基盤を無限に搾取し、生命圏を無慈悲に破壊し、宇宙を軍事化することはすべて無法行為である。人間として特に未来世代の視点から、地球と宇宙に、空気と水と土に、我々は特別な責任を持つ。我々は皆この宇宙に共に結び合わされ、我々は皆お互いに依存し合っている。我々は各々一切のものの福祉に依存している。それ故、自然と宇宙にたいする人間の支配は奨励されてはならない。そうではなくて我々は自然と宇宙とに調和した生活を育てていかなければならない。
- 我々の偉大な宗教的・倫理的伝統の精神において、真正に人間的であるということは、個人生活と同様に公的生活でも他人を思いやり、いつでも助ける用意があるということである。我々は決して無慈悲や野蛮であってはならない。国民の人種もすべて他の誰に対しても寛容と尊敬を、実際には高度の理解を、示すべきである。少数者は、人種的であれ、民族的であれ、宗教的であれ、保護と支援を必要としているのである。
あらゆる地域及び宗教の無数の男女がお互いに連帯して自らの生活を生き、自らの天職の真正な達成のために働くよう努力している。それにもかかわらず、世界中至る所、終わることのない飢餓と欠乏と必要があることがわかる。個人だけではなく、特に不正な機関や機構がこれらの悲惨に対する責任を負っている。何百万という人々が仕事を持っていないし、何百万もの人々が哀れな賃金で搾取され、社会の片隅に追いやられ、未来への可能性を破壊されている。多くの土地で、貧しい者と富める者、あるいは力を持っている者と力を持たない者の溝は巨大である。抑制の無い資本主義と同様に全体主義的な国家社会主義が多くの倫理的及び精神的価値を空洞化し破壊してしまった。物質主義的な心的態度が無制限の利益に対する貪欲と、留まるところを知らない略奪に対する強欲を生んでいる。これらの要求が、個人がより多く貢献することを義務づけずに共同体の資源を増々多く要求しているのである。腐敗と言う癌のような社会悪が発展途上国にも、発展した国々にも同様にはびこっている。
- 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は「盗むな!」との教令を見出す。あるいは、積極的な言葉では「正直に公平に為せ!」という(教令である)。我々はこの古来の教令のもたらす結果を新しく考え直してみよう。誰も他人からその福祉をどんな方法であろうとも、盗み・剥奪する権利はもっていない。さらに、誰も自らの所有物を社会と地球の必要に対する考えもなしに勝手に使用する権利は持っていない。
- 極度の貧困が支配している所では無力感と絶望感が広がっており、生き残るために繰り返し盗みもおきる。力と富が蓄積された所では不利な立場にあり、限界状況に追い込まれた者たちに、嫉妬、嫌悪、執念深い憎悪の感情と反逆心が起きるのは避けがたい。これが暴力と対抗暴力の悪循環に導く。誰一人として騙されてはならない。地球的公正がなければ地球的平和がないということについて。
- 若い人たちは、財産はたとえどれ程限られたものであっても、それは義務を伴うものであり、それを使用することは同時に共同の利益に資するものであるべきであるということを、家庭でも学校でも学ばなければならない。こうしてのみ公正な経済的秩序が建設され得るのである。
- この惑星上の何十億という極貧の人間、特に女性と子供の窮状が改善されるためには、世界の経済がもっと公正に構成されなければならない。個人の善行や救助計画は不可欠ではあるが、不十分である。公正な経済機構を構築するためにあらゆる国々と国際組織の権威の参加が必要である。
解体しつつある第二世界、ましてや第三世界、の負債危機と貧困の解決には諸方から支援が求められなければならない。もちろん、利害の衝突は避けられない。先進国においては、必須の消費と無制限のそれ、社会的に有益な財貨使用と無益なそれ、自然資源の正当化できる使用と正当化できないもの、及び利潤追求だけの市場経済と社会的に有益な生態学的志向のそれ、の区別がつけられなければならない。発展途上国もまた、自らの国家的良心を探求すべきである。
支配する者が支配される者を弾圧の脅威にさらしている所ではどこでも、組織が個人を脅迫している処ではここでも、また力が正義を圧迫している処ではどこでも、我々は抵抗する義務がある。しかし、できることなら、何時でも非暴力的にすべきである。
- 我々の偉大な宗教的・倫理的伝統の精神で真正に人間的であることは以下の事を意味する。すなわち、
- 我々は経済的・政治的な力を、勢力拡大のための無慈悲な戦いに悪用するのではなく、人類への奉仕のために善用しなければならない。我々は苦しむ人たち、特に子供・老人・貧窮者・傷害者・避難者・孤独者たち、に配慮して慈悲の修養をしなければならない。
- 我々は無制限な力と避けられない競争的争闘のみを考えるのではなく、利害関係の合理的な均衡に達するために、相互の尊敬と配慮を育成しなければならない。
- 我々は金銭や特権や消費に対する飽くなき欲望の代わりに、節制と謙譲の感覚を価値あるものとしなければならない。貪欲の中に人間は自らの「魂」を、自由を、落着きを、そして内面的平安を失い、かくして、自らを人間たらしめているものを失うのである。
- 寛容と真実の生活の文化への献身。
あらゆる地域及び宗教の無数の女性や男性が、正直と真実の生活をするよう努力している。それにもかかわらず、世界中至る所、終わることのない虚偽と欺瞞、詐欺と偽善、イデオロギー(観念主義)とデマ(扇動)があるのが判る。すなわち、
- 政治家やビジネス(商売)関係者たちは成功の手段として嘘を言う。
- マスメディア(大量情報機関)は正確な報道の代わりにイデオロギーの宣伝を、情報の代わりに虚報を、あるいは真実に忠実である代わりに反社会的な商業的利益を拡大している。
- 科学者や研究者たちは道徳的にいかがわしいイデオロギー的・政治的計画、あるいは経済的利益団体に身売りし、そして基本的倫理価値を犯す研究を正当化している。
- 諸宗教の体表者たちは他の宗教は価値がないと言い、あるいは尊敬と理解の代わりに狂信と不寛容を説教している。
- 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は「嘘を言うな!」という教令を見出す。あるいは積極的な言葉では「真実に話し、行え!」という(教令を見出す)。我々はこの古来の教令のもたらす結果を新しく考え直してみよう。如何なる女性も男性も、組織も、如何なる国家も、教会も、宗教共同体も、他の人々に対して嘘を言う権利は持っていない。
b.これは特に、以下の人々についてそうである。
- マスメディアで働く人々にとって。その人々に我々は真実のための報道の自由を信託し、(真実の)番人としての役割を付託したのである。その人々は道徳を超えて存立するものではなく、人間の尊厳、人間の諸権利及び根本的価値を尊重する義務がある。その人々は客観性、公平さ、及び人間の尊厳を反故する義務に拘束されている。その人々は個人の私的領域に侵入し、世論を操作し、事実を歪曲する権利は持たないのである。
- 芸術家、文筆家、科学者たちにとって。その人々に我々は芸術的、学問的自由を信託しているのである。その人々は一般の倫理基準を免除されているのではなく、真実の為に奉仕しなければならないのである。
- 国の指導者、政治家たち、諸政党にとって。その人々に我々は我々自身の自由を信託しているのである。その人々が人々に面と向かって嘘をつき、真実を曲げ、国内外の事柄に関する無節操(金銭ずく)や無慈悲の罪を犯した場合、その人々は信頼を失い、役職と選挙民を失うのは当然である。これに反し、いかなる時でも人々に勇気をもって真実を語る政治家を世論は支持をするべきである。
- 最後に宗教を代表する人々にとって。その人々が信仰を異にする人々に対する偏見、憎悪、敵意をかき立て、さらには宗教戦争を先導あるいは正当化するなら、その人々は人類の非難を受け、信奉者を失うのは当然である。
誰一人として騙されてはならない。真実と人間らしさがなければ、地球の公正はないということについて!
c.若い人たちは、真実に従って考え、話し、行動するよう、家庭でも学校でも学ばなければならない。その人々は自らの人生形成の決断をすることができるための情報と教育に対する権利を持つ。倫理的情報なしにはその人々は重要なものと重要でないものとを区別することは殆どできないであろう。日々の情報洪水の中にあっては、倫理基準がその人たちを助けて、意見が真実として描かれ、利益がベールで覆われ、偏向が誇張され、事実が歪曲されているのを、見破るであろう。
- 我々の偉大な宗教的・倫理的伝統の精神で真正に人間的であるとは、以下の事を意味する。すなわち、
- 我々は自由と独断、多元論と真理に対する無関心を混同してはならない。
- 我々はあらゆる他者との関係において、不正直、しらっぱぐれ、日和見ではなく、真実であるよう修養するべきである。
- 我々はイデオロギー的また党派的半面真理を広める代わりに、真実と清廉な誠実さを常に求めなければならない。
- 我々は勇気をもって真実に仕え、生活の日和見な便宜に屈することなく、志操堅固で信頼できる者であり続けなければならない。
- 男女の平等な権利と共同精神(パートナーシップ)の文化への献身。
あらゆる地域及び宗教の無数の男女が愛情、性、家族の領域でパートナーシップ(共同精神)と責任ある行動という精神で生活を生き抜くよう努力している。それにもかかわらず、世界中至る所、非難すべき形態の父権主義、一方の性による他方の性の支配、女性の搾取、子供の性的虐待や、強制的売春がある。あまりにもしばしば、特に発展途上国で、社会的不平等が女性やさらには子供にまで生きる手段として売春を強いている。
- 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は、「性的不道徳を犯すな!」の教令を見出す。あるいは積極的言葉では「お互いに尊敬し愛ぜ!」という(教令である)。我々はこの古来の教令のもたらす結果を新しく考え直してみよう。いかなる者も他の者を単なる性的対象物として品位をおとしめ、性的に依存させるようにさせ、あるいはそこにつなぎとめておく権利を持ってはいない。
- 我々は性的搾取と性的差別を人間性をおとしめる最悪の形態の一つとして非難する。たとえ宗教的信仰の名の下になされようと、一方の性が他方の性を支配すべきであると説かれる所、あるいは性的搾取が許容されている所、あるいは売春が容認されていたり、子供が濫用されている所では何処でも、抵抗する義務がある。誰一人として騙されてはならない。パートナーシップ(共同精神)で共に生活することなしに真正の人間性はないということについて!
- 若い人たちは、性は否定的な、破壊的なあるいは搾取的な力ではなくて、創造的で肯定的なものであることを、家庭でも学校でも学ばなければならない。共同体の生命肯定的な形成所としての性は、パートナー(共同者)がお互いの幸福を思いやる責任をとる時のみ、効果的でありうる。
- 男女の関係は恩きせや搾取ではなくて愛情とパートナーシップ(共同精神)と信頼関係を特徴とすべきものである。人間的充足は性的快楽と同じではない。性関係は同等のパートナー(共同者)が生活する愛情ある関係を表現し、強化するものである。いくつかの宗教的伝統においては聖を全面的に使用するのを自発的に放棄することを思想として認めている。自発的放棄もまた、自己確認と意義のある充足の表現でありうる。
- 結婚という社会的制度は、そのあらゆる文化的、宗教的多様性にもかかわらず、愛情と忠誠と永遠性を特徴としてる。それは夫・妻及び子供の安寧と相互援助を目指し、かつ保障すべきものである。それは家族構成員全員の権利を確保すべきである。
あらゆる土地と文化は結婚と家庭生活を、特に老人たちにとって、人間としてふさわしものにする経済的、社会的関係を発展させるべきである。
- 我々の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の精神で真正に人間的であることは以下のことを意味する。すなわち、
- 我々には、暴力と対抗暴力を表現する父権的支配と堕落ではなく、相互の尊敬とパートナーシップ(共同精神)と理解が必要である。
- 我々には、専有的渇望あるいは性的濫用では無くて相互の思いやり、寛容、進んでの仲直り及び愛情が必要である。
- 個人的・家族的関係ですでに体験されたものだけが、国家的、宗教的水準で実行可能なのである。
あらゆる宗教の男性と女性と諸宗教は、相互調和、相依性、そして地球とその生物と生態系の尊重の精神で生活を導くよう努力している。しかしながら、世界の殆どの地域で汚染は土、空気、水に悪影響を及ぼし、森林伐採と化石燃料への過剰な依存は気候変動を引き起こし、生息域は破壊され、生物種は漁労や狩猟で絶滅している。自然資源の過剰搾取や不公正使用は人々の間に紛争と貧困を増加させ他の生命形態を傷害っする。あまりにも屡々、最貧困の人々は、自らは最小の衝撃しか与えないのに、惑星の大気圏、土地、そして海洋に対する損害の矢面に立たされている。
- 人類の宗教的、精神的、文化的伝統において、我々は「貪欲であるな!」という教令を見出す。あるいは積極的な言葉では、「一切の前を想起せよ!」という(教令である)。この教令の結果を新しく反省してみよう:我々は、今日と明日の子供達を含めて、他者の必要と福祉の為に―我々の能力の最善を尽くして―提供するよう援助すべきである。地球は、その限られた資源とともに、我々の単一人間家族によって分かち合わなければならない。それは我々と多くの生命形態を支え、我々の尊敬と世話を要求している。多くの宗教的、精神的、文化的伝統は生命の相互依存の網の中にわれわれを置いており、同時に、それらは我々の特別な役割について同意し、我々の知識と技巧は共通の善を養育するようにこれらの才能を賢明に使う責任があることを確認している。
- 我々すべては出来る限り、地球に掛ける負荷を最小にし、諸生物と環境を個人的使用や享楽の為の単なる物とせず、未来の世代に対する我々の行為の結果を考慮する責任をもっている。資源の世話と賢い消費は公平に基づき生態系が支え得る限界を考慮されなければならない。どこであれ、地球と他の生物に対する人間の不注意な支配が教えられ、環境の乱用が許容され、発展が維持可能な限界を超える所では、それをはっきり表明し、我々のやり方を変え、我々の生活様式をもっと節度あるものにしなければならない。
- 若い人たちは良い生活とは度を越した消費や物質的所有を集積させる生活ではないことを本当に判るように鼓舞されるべきである。良い生活とは自らの必要、他者の必要、惑星の健康の均衡を保つものである。環境と維持可能な生活についての教育は世界のどの国でも学校のカリキュラム(履修課程)に入れるべきである。
- 我々の宗教的、精神的、文化的伝統の精神において真正に人間的であるとは以下の事を意味する。すなわち、我々相互と更に広い生活世界の関係は尊敬、世話、感謝に基づくべきである。全ての伝統は地球が驚異と智慧の源泉であると教えている。その生命力、多様性、そして美しさは我々の後にくる者たちも含めて皆の信頼に委ねられている。地球環境の危機は緊急であり深刻化している。惑星とその無数の生命形態は危機にさらされている。残された時間は無くなっている。我々は愛情と慈悲をもって、公正と公平の為に―全地球共同体の繁栄の為に―行動しなければならない。
原理 IV:意識変革に向けて我々は働く。
歴史的経験は次の事を実証している。すなわち、我々が個人の意識内及び公的生活内で変革を達成できなければ地球は良い方に変えられないということを。変革の可能性は、最近数十年に根本的変化の起きた戦争と平和や、経済と生態学におけるような分野においてすでに垣間見られたのである。この変革が倫理と宗教の分野おいても達成されなければならない!
すべての個人は本質的に備わった尊厳と手放すことのできない諸権利を持っており、各人はまたその為すことあるいは為さぬことに対して逃れられない責任をもっている。われわれの一切の決意と行為は、怠慢にも失敗にさえも、すべて当然の結果がある。
この責任感を生き生きと持ち続け、それを深め、未来の世代に伝えていくのが宗教の特別な課題である。
我々はこの意見の一致において達成したものについて現実的である。それで我々は以下のことを守ることを力説する。すなわち、
1.(生物・性倫理から大量報道・科学倫理、さらに経済・政治倫理に至る)多くの議論されている倫理問題に対する全般的意見の一致は得難いであろう。それにもかかわらず、多くの論争中の問題に対してさえ、我々がここに共同して展開した根本的諸原理の精神に照らせば適切な解決が得られるはずである。
2.多くの生活分野において倫理的責任の新しい意識がすでに起きている。それ故医師、科学者、ビジネス関係者、ジャーナリスト(報道関係者)や政治家のごとき、できるだけ多くの専門職業人が、それぞれの特殊専門職の難しい問題に対する、特別ガイドライン(指針)を提供する、現状に合った倫理的規則を編み出してくれるなら有難いことである。
3 なかんずく、我々は様々な信仰共同体が自らに独特の倫理を定式化するよう強くうながす。すなわち、例えば、生と死の意味、苦しみに耐える事や罪の許しについて、自己犠牲や出世間の必要について、あるいは慈悲と喜びについてそれぞれの信仰伝統が言うべきことを、これらは、すでに判別可能な地球倫理を更に深め、更に特定化することになろう。結論として、我々はこの惑星の一切の住人たちに訴える。個々の意識がかわらなければ地球は良い方に変えられない。我々は個人及び集団の意識のそのような変革のため、反省、瞑想、祈り、あるいは積極的思考によって我々の精神力の目覚めのため、そして心の転換のために働くことを誓約する。一緒になれば、山をも動かすことができるのだ!危険を負う覚悟と犠牲を払う用意がなければ、われわれの現成を根本的に変えることはできない!それ故我々は、社会的に有益であり、平和を育成し、地球に親しい生活法と共に、共通の地球倫理とより良い相互理解のために献身する。
我々は、一切のの男性と女性に、
宗教的であるなしに関わらず、
同様にするよう招請する。
註:地球倫理宣言(初宣言)の25周年にあたり、2018共通年7月に広汎な何か月の諮問過程と世界宗教会議の理事の承認の下に第五教令が追加されました。
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上記翻訳は拙著「地球倫理宣言」(東京:世界聖典刊行協会、1995:宣言他収録)の改定版です(第五教令など追加)。